Mayfly Diary

ここは無人島です

鼓動と呼吸 佐野文哉は彗星だった

 

ゆるゆると薄く浅くK-POPオタクをやってきたのだけど、つい最近、ここ数年で一番心魅かれる人物が現れた。

だけど彼は光の速さで追うことのできない存在になってしまった。

SNSで愛を呟きまくったり、オフ会したり、イラストを描いたり、推しへの「愛」には色んな昇華のさせ方があると思うんだけど、やっぱり私には文章を書くしかないので、埃を被ったブログの蓋をあける。

 

当たり前だけど個人の経験として書く。

 

 

・佐野文哉は彗星だった

 

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  で、本題に入る。日プことProduce101 Japanというアイドルオーディション番組の話だ。視聴者には投票権が与えられて、推しに票が集まればデビューさせることができるという趣旨の番組。

 

わたしは推しが決まらないままグループバトルくらいまでだらだらと番組を見ていて、歌える人がいいなーとか思いながら何となく11pickしてた。だいぶ話数も進んでて国プたちもだいたい1pick決まりつつある感じだけど、自分はもやもや…だったのが、なぜだかコンセプトバトルの頃には佐野文哉以外は目に入らなくなっていた。あとから考えると、1年以上取り組んでいた資格試験が終わって気の抜けたタイミングとちょうど重なっていたんだけど、人生にはそういうタイミングがあって、そこにすぽっと現れたのが佐野文哉だった。ふと気がついたら「Black Out」ばかり狂ったように見てた。

 

え…こんな逸材いたの?

舞台のどこにいても目を奪われる。動揺しながらも、その存在に取り憑かれている自分がいた。

 

 「 Black Out」の彼は彗星のように青く輝いている。流れ星と彗星の違いはよくわからないけど、流れ星は塵で彗星は小天体らしい。流れ星は地球に近づくと燃え尽きてしまうけど、彗星が光って見えるのは熱で氷が溶け表面から放出されたガスや微粒子が太陽の光に反射し光って見えるからだという。

あの日プのチッケム、画質が粗くて照明も暗いためステージに立つ彼らのパフォーマンスを見るときにどうしても自然を目をこらすことになってしまう。その必死に見つめる感じも大きな宙に1つの星を探してる感覚とちょっとだけ重なった。

青く輝く彗星。それが佐野文哉だった。変化し続けながらどこかへ向かっている。それは彼に関わるすべてを反射する光。纏っている空気はひんやりとしていて、漆黒の瞳は無重力を感じさせる。

 

ヘアメイクとか衣装で彼のの魅力を際立たせるスタイリングも最高だった。佐野の耽美さを爆発させてた。そう、ステージって色んな才能が結集した化学反応で素晴らしくなるもんだ。

 

  「Black Out」以前の佐野文哉を特別まじめに見ていたわけではなかったのに、この時点ではっきりと「High Light」や「Why?」の時の彼がフラッシュバックしてきた繋がった。記憶にはしっかりとサブリミナルされたいたらしい。だから点じゃなくて線、そしてひとつの佐野文哉像となったときに、それはひとかたまりに遠くの空を流れ墜ちてゆく彗星のようだった。

 

 

 


【佐野 文哉(Sano Fumiya)】推しカメラ|♬Black Out@コンセプトバトル|PRODUCE 101 JAPAN

 

 それから何度も彼のチッケムやステージ全体の映像をみて没入した。

 

改めて見るHigh Lightは1番カメラワークが良くて、舞台も観やすくて、振り付けも構成も最高で、彼の表情とか視線とか指先の緊張とかもはっきりと分かってとにかくすべてが美しくしかった。最初からこんなにも素晴らしかったのね、とひとり感嘆した。

 

こんなに静謐な魅力を湛えた人、日本のアイドル界では見たことなかった。

 


PRODUCE 101 JAPAN|2組|SEVENTEEN♬HIGHLIGHT@#4 ポジションバトル

 

 

 

佐野文哉のダンスは鼓動と呼吸だと思ってる。彼のステージを見てると、動きが気流になってこちらまで流れてくる。吸って吐いて止めて、また酸素が血液に取り込まれて。わたしまで彼の動きに合わせて、いつのまにか呼吸を合わせてる。佐野文哉の呼吸に合わせてるんじゃなくて、動きに。

緩急と強弱

緊張と弛緩

その数ミリの独特なズレとかリズムに佐野文哉を感じた。儚さもあるけど、なんとなく硬質な手触りがある。彼はもっといろんな表現が出来るんだろうな。これ以上言い表せないけど、とにかく共に息をして、その瞬間だけは同じ時間の流れを生きているって感じがした。

 

美しく踊る人を見るとその人の踊りに同化して同じ時の流れに身を置くことができる。たかが3分されど3分、その幸福な余韻は永遠に思い出せる。それが何よりもありがたいし幸せなんだ。佐野の表現したものはそういうものだった。

 

ビジュアルも美しさもさることながら、佐野は歌声も彼そのものって感じがして素晴らしかった。幸せだったよ、ありがとう。この番組に出てくれて本当にありがとう。

 

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私がずっと大好きなNCTのテンが踊るBaby Don’t Stop

佐野文哉が踊ってくれたらそれはそれは素晴らしいんだろうな。 

佐野も止まらずにあなたの人生を謳歌してくれ。

 

 


NCT U 엔시티 유 'Baby Don't Stop' MV

 

 

 

・「物語」無しには語ることのできない「推し」という存在

 

わたしは今までずっとK-POPのオタクでしかなかったので、アイドルとして活動するアイドルたちとはそれなりの距離感があったし文化や言語の壁もあった。画面ごしにアイドルを見ては「素敵だなぁ」と感嘆するだけで幸せだった。でも今回の日プは全然違った。投票というパワーを手に入れてしまったわたしは、遠巻きにパチパチパチと拍手を送る立場から重みのある1票で推しをデビューに導くという、甘美だけど人を狂わせるある種のパワーを手に入れ動かされる立場へと変わってしまったのだった。

 

投票して彼らの運命に関われるとか、動画やSNSの投稿から直接母語で彼の発する言葉を受け取れるとなると、距離が近すぎてバグった。ダイレクトに言葉とか、年齢とかバックグラウンドも知ればおのずとひとりひとりに対するイメージも具体的になり思い入れも強くなる。自分でも制御が効かないくらいに。手の届かないものだと偶像だと自分自身に言い聞かせ続けなければいけない自分に困惑した。

 

  どんな相手との関係だって見えてるのは相手の一面でしかなくて、自分と相手の関係性とか一瞬一瞬の時間の共有とかで関係性って作られる。だからもちろん番組の姿は彼らの一面でしかない一方で、「推し」のイメージを形作る大部分ですらあったりする。番組では数ミリしか見えてないだろう彼らの人格は「推し」を構成する一大要素になり、それが彼らにとって魅力になる事も大いにあれば苦しみになることだってある。切り分けられた番組のなかで、いち視聴者としてそのバランスをとるのはかなり難しいことだった。というか無理だった。

 

かくして混沌の中から生まれた「推し」だっただけど、

脱落は辛かった…

次の日は何を見ても色も匂いも感じないくらいに落ち込んだ。

しばらくの間はとにかく解脱するか、じゃなきゃ次は白樺になりたいとさえ思っていた。

 

 

 

  だから結局立ち直るには、わたしに必要だったのは、彼を感動とかで消費して終わるんじゃ無くて、この感情を自分ごととすることで落ち着くことだ…と思ったけどまだ正直立ち直ってません。もう時間が解決してくれることを待つのみ!とにかく佐野文哉が素晴らしかった記憶だけは形にして残したい!それだけ。

  

デビューできた子たちは、タイミングとか運とかも兼ねた人生の色んなピースがかっちり合った子たち。運も実力のうちって言うように。決まったことは決まったことだし祝福しかしたくないし、彼らのこれからの頑張りに期待してる。だけど、放送の分量や最初のレベル分け、ステージの順番、投票締め切りのタイミングが違えば結果は全然違ってたたろうことは確信してる。だから、結果をみて納得できない人が大量発生するのは当然だ。愚痴やアンチはもちろんよろしくはないし、ネットリテラシーは世界全体で上げてかないとっていう壮大な話になっちゃうけど、それを差し置いても今回は個人の理性で抑えきれないくらい狂わせてしまうようなシステムと引力がこの番組にはあった。投票という言葉の公正なイメージのせいだろうか。

 

 

とにかく素晴らしい才能に出会えて感謝している。それに尽きる!すべての練習生に幸あれ!

 

 

『侍女の物語』モノ語ることは生きること

 

侍女の物語 (ハヤカワepi文庫)

侍女の物語 (ハヤカワepi文庫)

 

 

*読後、興奮して布団に入ってもなかなか寝付けなくて困った

 

「自由に価値なんてない。過去にだってなんの価値もない。」

 

物語が終わりに近づくころから、わたしの頭のなかではそんな言葉が鳴り響いていて、むしろその自暴自棄な言葉に興奮して酔いしれてさえいた。

 

あれほど最後の砦のようにすがるように必死で保ち続けてきた「正気」でさえ、どうだっていい。まるで屋根の上からドールハウスの中のお人形遊びを見ているだけで、それまでにどんな苦しみと排除と声なき死があったかなんて些細なスパイスでしかないというような、そんな気持ちになった。そうやって意識が正気がぶれてゆけばゆくほど、ニックとの逢瀬はさらに狂おしくなった。こんなに壮大な前戯があるかよ。

 

そんな段階に達すると物語は突如として嵐のように過ぎ去り、後に残ったのは確かめようのない不確かでぼやけた歴史の一点だった。

 

そうだ。そんな楽しみ方は不謹慎だ。だけど不謹慎と『侍女の物語』の世界を作り上げている厳格な規律と信仰は表裏一体だ。

 

この作品を読んでいる途中でいろいろな事件とか作品とかを思い出した。ひとつは近年告発が増えている、カトリック教会での聖職者による性的虐待だ。あとは、性的虐待のはびこっていた女性修道会を解散したことをローマ法王が認めたというニュースも最近大きく報じられたところだ。

侍女の物語』ではキリスト教原理主義っぽく描かれているけれど、キリスト教でなくてももちろん宗教に限らずとも、人をあまりに厳しく律したり、閉鎖的空間と絶対的権力の発生する構造にあるとかえって、その規律から大きく逸脱する行動に走りやすい。

この作品にはそんなエクストリームな社会構造への警鐘が鳴り響いている。

 

 

サウルの息子(字幕版)

サウルの息子(字幕版)

 

 

・人が人でなくなる

サウルの息子』のキツさったら無いんだけど、人がどこまで人でいられるのか、あるいはどこまで人でなくなれるのか、みたいな意味でこの『侍女の物語』と通じるものを感じた。オブフレッドが正気を保つために死ぬことも許されない部屋で一つ一つの区画を1日ごとに「探検」したり、出来るだけ過去を思い出すことを自分に禁じたり、はたまた夫の無事を夢想してすこしだけ心を穏やかにさせたり、という自由もなく最後にあるのはどうせ死でしかない拘束された生活のなかでの心理描写が本当に丁寧で、かつて強制収容所に入れられた人々の心理も、今では知ることはできないけれど、きっとこんな感じだったんじゃないだろうかと思った。

粘り強く丹念な描写に計り知れないアトウッドの度量を感じた。

 

・「知ること」「名前」「物語り」すべては消される

 消されていく、あるいは無かったことにされるすべてのことを思うと、いたたまれなさすぎてどうしようもない。それは預金、仕事からはじまり、家族、子供、過去、名前と進んでゆく。ついには「歩く子宮」となるわけだ。ほんの少しの隙間から過去や夢想する物語がフラッシュバックしてくる。ある時は娘の風呂上りの肌の匂いだし、あるいは赤のセンターでトイレの壁越しに交わした友達との会話。それらが、現在と過去を行ったり来たりは、過去や背景を説明しなくてはならないという小説的事情っていうのをはるかに通り越して、オブフレッドの認知をリアルに表すものになっていて引き込まれる。

そして物を語ること、つまり個人にとってももっと大きな意味でも「歴史」というものが消されてゆくことの恐怖もしっかり描かれているのが、辛くて凄くて面白いところ。

 

 ・Hulu版ドラマ『ハンドメイズテイル』

Huluには加入していなかったのだけど、このドラマ見たさにお試し期間に突入してしまった。わたしが見ているのはまだシーズン1の途中だが原作とはところどころ違っていて、原作より細かい部分も描いていて興味深い。

1話目からオブフレッドと彼女の娘の本当の名前が出てきたのにはびっくりした。あと原作では黒人はハムの子孫として、どこかに強制移住させられていたけど、ドラマでは多様な人種が出てくる感じ。あとLGBT的な部分も意識して描いている。

アメリカって自由の国といわれるけれど、それとは180度異なる極端な社会を描いた『侍女の物語』。だけどアトウッドもインタビューで述べているように、アメリカに入植した最初の人たちは、ここを自分たちの理想の宗教国家にすべく来たわけであって、彼らとアメリカ国家は地続きだし、いまでもキリスト教原理主義系の勢力はすごい勢力だ。事実、トランプがこうして大統領の地位についたのも彼らの支援があったおかげだし。Huluのドラマ版では、現在のアメリカを意識した構成になっているのもみどころ。

 

まだドラマ版は1シーズンの8話までしか見てないけど、原作に比べると全体的に楽観的(あくまで比べるとだけど)な雰囲気がそこはかとなくある。もちろん出口の見えない状況ではあるけど、原作だとオブフレッドの視点のみで語られるから、僅かで不確かな情報だけを頼りに生き延びていて、正気を保つことだけで精一杯なのに対して、ドラマ版のジューンは「屈しない」とか「You are not alone」とかっていう言葉が使われているように「希望」の度合いが強め。それがアメリカっぽい。歴史に押しつぶされて行く人を描いている要素が原作では強いけど、ドラマはサバイバル的側面を強く打ち出しているのかな。

つまびらかでなかったルークやニックの人となりをドラマで膨らませてくれてるのはありがたい。おかげでわくわくがとまらない。シーズン3も制作とかっていう噂があるけど、全然原作からはかけ離れていくんだろうな。

 

 

アトウッドを読もうと思ったきっかけは、エルジャポンで都甲幸治さんが「エポックメイキングな10冊」にあげていたから。ほんとに読んでよかった!アトウッド偉大過ぎ。

ユリイカ「K-POPスタディーズ」2018年11月号

ユリイカ 2018年11月号 特集=K-POPスタディーズ ―BTS、TWICE、BLACKPINKから『PRODUCE101』まで…いま〈韓国音楽〉になにが起きているのか―

興奮に打ち震えながら読んだ。

 

Amazonから届いた箱の1番下から力づくで引き抜いて取り出した。ビオレのハンドソープ泡タイプ詰め替え用二本セットの下にいたもんだからなかなかの力技になった。

 

まず思ったのは、

みんなBTSの爆発的成功を期にK-POPについて語りたくてしょうがないんじゃないか。って事だ。

 

いや、それは私か!俺はこの現象こう読むぜ!って言いたがりだもんね!

 

そんな熱気を感じてる。(特に自分に)

 

丸山久兵衛さんの『SoulとSeoulをつなげること』では、ブラックミュージックのことはわたしは全然詳しくないんだけど、丸山さんの考察によって、彼らがいかに熱心で関心が高くて高い音楽性を持っているか説得力をもって語られている。あとJ-hopeの話も好き。シンガポールでファンと交流するイベントの時に、イスラム教徒の女性とセルフィ―を撮る事があったらしいのだけど、「みんな、彼女に直接触れてはいけないよ」って注意したそうだ。配慮すごい、偉い。

 

イケメンで知性もあってとか、所謂スペックとか昔でいう三高?的なことじゃないんだ。あれもできてこれもできてみたいなことじゃなくて。もはや人間として高度なレベルの、まさにアーティストとしてのアイドル像、確立しつつある。

 

そしてそして、

 

大和田俊之さんの『博士(アメリカ文学)の異常な愛情』もなんか笑った。ソシのメンバー覚えられなかったとか。娘にかこつけてTWICE見に行くとか。Gleeのマイクがアジア系男子のひとつのステレオタイプ(の過渡期)として語られてるのにも納得だった。

 

 

あと面白かったのは、

 

 

すんみさん「BTSの生成変化」

 

韓国日報』にて「BTSの個性は歌詞」にあるとして、その歌詞のビックデータ分析をおこなっている。

ネガティブな言葉が溢れるBTSに対して、楽しい、スイートなどポジティブな言葉が目立つBIGBANGとTWICE。

(中略)

達筆すべきは、BIGBANGとTWICEがともに「baby」と言う単語を1番多く使っているのに対し、BTSの場合、「私」という言葉を1000回も繰り返していることである。(抜粋)

 

そーだったんだ!BIGBANG意外とbabyって言ってたんだ!って事じゃなくて。

BTSは「俺ものものになれ」って言う前にまず自分のことを語るっていう、人としてあるべきスタイルを実践していることが判明した。でもこれって難しいことだ。君の事がどれだけ好きかを語ることに終始する曲が多い中で(とくにメロウな曲ほど「この世の何処かにはこんな最高にイケてる美男美女が絶体絶命でランナーしてるってのか…」って常識を打ち破る必要性を感じさせる歌詞とか多くない?)まずは自分について語ること、自分を愛することを語りかけてくれる。泣けるな。

 

 

さらにすんみさん、K-POPの広がりに関して、イ・ジヨンの「ネットワークイメージ」というのも引き合いに出していて、

表現者と受容者の境界を崩して、映像芸術の新たな領土を作る。水平的で脱中心的な方向に向かっている。(抜粋)

 

ええー小難しいけどエモいわー。

うんうん、YouTubeとかSNSで世界は変わったよな。双方向だもんな。

 

 

やっぱ普段から漫然と楽しんでいるものに言葉が与えられると、楽しい。

 

 

Mステに出られなかった件は完全に日本側からのいちゃもんだから、ここぞとばかりにネットが噴き上がってるの本当に恥ずかしいからやめてほしい。日本に出稼ぎに来させてやってる、って上から目線で彼らを見てるからそうなるんだ。簡単に反日とかって、白黒つけられるほど歴史は簡単じゃないし、日本は植民地にしてたわけだから、それも忘れて日本万歳で来てねって言うの無理があるでしょ。少なくともそこまで求めるのは求め過ぎ。

 

とにかくBTSを変わらず応援する📣💕

 

 

痛すぎるスーパーリアル|ミランダ・ジュライ「最初の悪い男」

 

最初の悪い男 (新潮クレスト・ブックス)

 

ミランダ・ジュライ初の長編小説だ。

 

クレストブックのあとがきにもある通り、ミランダはインタビューにて書き上げるまでの道のりは「苦しかった」と語っている。わたしもなんだか最後まで苦しかった。作家自身の苦しみが手に取るように伝わってくる。登場人物の輪郭はもちろん善とか悪とか、やさしさとか愛情とか、そういうもので表されるものではなくて、主人公のシェリルから見た生々しい姿で描かれている。そんなところはとってもジュライらしい登場人物だし、ストーリーよりも、場面場面を描くことにいかに忠実であるかに重点が置かれている感じも優れた短編を多く書いてきた作家ならではだ。彼女らしい感性がふんだんに盛り込まれた流れに、余韻を引き継ぎつつも、作品を確かなものにするために推敲に推敲を重ねたというストーリー。その調整には腐心したんだろうな。

 

といはいえ、ミランダは「今まで経験した創作活動のなかでも最も楽しいものとなった」とも語っていて、誰ひとり楽しそうに生きている人はいないけど、滑稽でどこか間抜けで醜くて、読者自身の痛さと共鳴するところが必ずある。

 

生々しい。

 

なんていうか、字のまま“人間臭い”のだ。読んでいると本当に、唾液の匂いとか、ゲップ、汗や垢の匂い、じっとりと湿っている寝袋から皮脂の匂いが立ち上る感じが本当に感じられてくる。「うえっ」とか「くっさ」とか思うんだけど、すでにそう感じている時点で作品に没頭してる証だ。匂いだけじゃなく、シェリルの自慰とかセックスとかももうなんでこんなに直接的に肉体的なんだろうと思わせる凄味がある。衝立の裏でチャイニーズの空容器おしっこをして、そのほかほかの容器を抱えながら衝立の向こう側の先生の顔を覗くとか。まともじゃなさが凄い。こんなにも生き物なのに、その生理現象と自分の存在がちぐはぐ。みたいな。

 

突然シェリルの家に転がり込んできて、独占したソファーの上の寝袋で寝起きするクリー。不潔でグラマーで頭が悪くて態度は最悪、そして金髪。そんな彼女と色んな意味での肉体同士のぶつかり合いが始まる。そしてシェリルは彼女だけのやり方で生きることを取り戻してゆく。

 

だけど最初のほうはすごく「あれ?」って思った。“ヒステリー球”とか“クベルコ・ボンディ”とか「いやいやいやいや」って「なんか笑っちゃうんだけど」て付箋を挟んでつぶやく程シリアスが突き抜けすぎていてコミカルだ。

 カラーセラピーとかシェリルが作り上げている“システム”とかも、全然リアルじゃない。なんでそれに行きついた?みたいな。でもヒステリー球が大きくなる場面に出くわすと、なんだか読んでいる自分自身の喉にも違和感を感じてしまう程るわたしはシェリルに自分を重ね合わせてた。なぜなら実際彼女が行っている滑稽なことじたいは現実を上滑りしているものの、生きる痛みだけが辛うじてリアルで現実だからだ。

 

 

結局何を選ぶかだけが大事。みたいなことでは言い表せないのだが、もちろん正しさとか正義じゃなくて、人が限りなく個でありながら、愛がその真ん中にあったり不在だったりする。愛する対象を探していたり。

 

食器もフライパンも洗わないし、風呂の排水溝に詰まった髪の毛も掃除しない。その分セックスの優先順位が高くて、それにかける時間と体力がもの凄い。のだけどだんだんと、そんな風に線引きして「やっぱアメリカ人だわぁ」とか「アメリカ文学だわぁ」とか冷笑的に見ようとする自分が取るに足らない存在に思えてくる。

 

 

 

それから保育器の中のクベルコ・ボンディに語りかける描写は美しい。

みんな時間の内側に存在しているの。…どうかこの部屋だけで判断しないで…あなたはもう生き始めてしまったの。あなたはこれから何か食べたり、くだらないことで笑ったり、徹夜ってどんな感じか知りたくて朝まで起きてたり、…、長い人生にすっかりくたびれて、そして死ぬ。そうなってはじめてあなたは死ぬの。今じゃなく。-(本文抜粋)

 そして死と生の薄い膜の隙間で、昼夜も分からないまま這いつくばるように病院と家を行き来するシェリル。透明の保育器の中で無防備に命を燃やしているクベルコ。シェリルのこの言葉は自分に言い聞かせているようにも聞こえる。やさしく世界があなたを迎えているよ、って。

 

40代の女。イタい女。めちゃくちゃ痛かった。わたし自身のイタさ”が痛かった。そして揺さぶられて。もういちど世界は優しいような気がした。

 

 

最初の悪い男 (新潮クレスト・ブックス)

最初の悪い男 (新潮クレスト・ブックス)

 

 

人と仲良くなるのが苦手な自分を変えることはできるのか

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逡巡している。

 

わたしは人と仲良くなるのが苦手だ。

仲の良い友達もほとんどいない。親友と呼べる人もいない。

入ったサークルとか子育て関係の保護者の集まりなんかでも、いつまでも1人だけ苗字で呼ばれてるタイプだ。

 

友達が当たり前のようにいる人にとっては、信じられない話だろう。

大学生のころ、わたしが遊びにも行かずに家にいるのを見かねて母が「あんた友達とかいないの?」って聞いてきたときには心臓が石ころのようにキューっと固くなった。

お母さんご心配ありがとう。

でも親友とか友達っていうものがいるのが当たり前だと思わないでほしい。ひとりでいるのは好きだけど、友達が要らない人などいない。いるとほんとに素敵。でも自分には“出来ない”んだ。難しい。そして「わたしには友達がいない」ってこと自体が、わたしの存在価値を押しつぶすくらいのコンプレックスになるときがあるんだ。

まあ母にはなにも言い返せなかったのだけど、完全に心配されていたわたし。

なんだかみじめだった。

 

 

わたしは常に人に対してバリアを張っている。張ってしまっている。そして自分のバリアが相手に伝わって相手にも距離を取らせてしまう。

 

どうしてバリア?

 

バリア感の最たるものは沈黙だ。わたしの場合沈黙せざるを得ないのは、パッとうっかり口から出るひと言が大抵相手をビクッとさせてしまうからだ。だからまず沈黙する。その甲斐あってか空気は余計にどよーんとする。最初そんなことなくても急激にどよーんとする。

すると今度はその沈黙を破るために何か言わなきゃと焦る。しかし発言したところで、空気をピリつかせる腕前は一級品だ。ピリつく理由は、声のトーンとかかしこまりすぎな言い回しとか、飛躍した話題とかだ。それらのどれか、あるいは全部が出てしまう。

そのくせ、ピリついた空気にはわたし自身がやたら敏感で「やっちゃった」と冷や汗きながらも、できることと言えばひきつった笑顔を保持することのみ。場に空気を和ませることなんて当然できやしない。

 

そんなこんなで、コミュニケーションをとる際には自分に課しているポイントがいくつかある。

一、沈黙を破るためだけに直球で質問しちゃだめ。

一、何も考えずに感性で発言しない。まず共感。

一、話は最後まで聞くにようように心がける。

一、大抵衝突事故になるので、無理な発言あるいはカットインは控える。

一、常に笑顔で。

 

どうだろう。

当然のことと言えば当然のことばかりだ。そして、書き出してみると我ながらかなりのうわべだけのルール。テクって感じだ。

というものの、実際かなり真剣にこのルールを心がけている。心がけすぎて、自分の決めたルールに縛られすぎて身動きが取れなくなるほどだ。

 

これをドツボという。

 

だから趣味のサークルとか親子のふれあいセンターとか連れ合いの親戚の集まりとかに参加すると、もんのすごく疲れる。ほとんど座っているだけで人と話をしなくても、遠泳の後かっていうくらいげっそり疲れる。

 

では翻って上記のルールを無視し「心のままに突き進んだら」どうなるのか。

それは高校生の時の体験から、「無理」だと脳にブレーキを掛けられている。

 

高校生の時のわたしは、それこそ「自分をさらけ出した者こそが勝者だ」みたいな幻想に駆られていて。ちょっとアクセル踏み込みすぎの、いわゆる(当時の)「はっちゃけた」自分に酔っていた。だけれど、その暴走によって相手の性格も考えずに友達をからかってしまったり、誰かの言いたいことを遮り続けて、最終的にはみんなが私の発言待ちになる、みたいな体制ができてしまったりした。場の空気を明るく楽しくしようと必死で、でかい声でバカなこと言って、それほど面白くなくてもめちゃくちゃ笑う。みたいな。

 

どれもこれもが自ら蒔いた種なんだけど。

そんな毎日に疲れ切っていた。その場その場ではどうにか楽しく「浮かず」に学校生活を送れていたのだけれど、結局なんでも話せる友達もいないし、休日に遊びに誘ってくれる友達もほとんどいなかった。別にスクールカースト上位だったわけでもないし、クラスでは全然目立つほうではなかったと思う。でもなんか、無理していた。

今思えばかつてのわたしは、明るく振舞う反面、怯えていたのだと思う。そのせいで結局いつも受け身のままだった。

根本的に断られるのが怖くて、あるいは期待を裏切ったり、「みんなのように」振舞えない自分が申し訳なくて、友達にメールを送ったり、遊びに誘ったりすることができなかった。そうなれば、当然誰からも誘われない。つまり一歩踏み込んだ付き合いができないひとだった。学校で会うだけの人。放課後とか休日とか、卒業しちゃえばそれまで。ってかんじの。

あとは意見も言えなかった。し、今でも言えない。本当に信頼している人にしか言えない。それ以外の人には、完ぺきに同調するか、はぐらかすか、分からないふりするかだ。(ひどいな)

 

ともかくこういう経緯で「心のままに突き進めモード」は却下した。

 

仮に全然立場の違う人どうしで、ひとりとひとりとして知り合った場合なら、それほど躊躇したり付き合いにしり込みしたりすることはない。そういう場合なら、誰とも比べられずに「わたしはこういう人です」って、堂々としていられる気がするから。

考えてみたら、わたしが連れ合いのロッキー教授に心を開けたのも、世代も違うし、育った地域も違うことによる安心感が背景にあったからだ。

 

 

もちろん自分をさらけ出すことが唯一の方法だとも思わないし、大人になってから少しずつマイペースに付き合っていくなかで相手の人となりを知るって経験もするようになった。なにもありのままの全てを受け入れてもらおうなんて思っちゃいない。だけど、個別のそれぞれ違う状況下でのコミュニケーションにおいてどれくらいの態度で、何をどうすればいいのか。という実際のシチュエーションとなると、身動きが取れなくなるのだ。

 

考えすぎ。

 

だろうか。

 

高校生の時の経験以外にも、コミュニケーションに関してはフラッシュバックみたいに辛い経験が湧き出てくる私としては。「何も考えずに」とか「ようは自分がどうしたいか」とか精神論的な基準でやるのは無理。

 

見えない「みんな」に怯えすぎている。たしかにそれは「空気」だから「見えない」。もちろん、同じ「空気」の中にいても、とらえ方の差異はある。「空気」は目に見えないけど、それぞれの心にしっかりと内面化されていて、人と違うことはNGだと手に手をとってブレーキをかけている。そしてそれが標準状態。人よりも空気とか和を尊重する向きがある。その和を乱さないピンボールの範囲は、わたしからするとめちゃくちゃ狭い。少しブレれば、すぐにアウトだ。アウトの球は認識されないしカウントもされない。

 

ぶっちゃけ「空気を読むことを善しよされる文化」が嫌いだ。

 

だけど、現実問題空気を読まないと、周りを不快にさせる、もっと悪いと相手も自分も傷つく。近づきがたいオーラをだすと「空気」を悪くしてしまう。そうしたいわけじゃなくって、やっぱり楽しく時間を過ごしたい。

 

そう、私は閉じているんだ。がちがちに。どうにか閉じたまま、人とうまくやろうとしている。開けるか閉めるか。その二択ではないのだが、うまい開き加減が全然見つからない。

 

もうちょっと目的意識、あるいは役割をシチュエーションごとに設定してみたほうがいいのだろうか。

 

どうだろう。

 

話が長くなったのでいずれまた続きを書きます(^_-)-☆

 

K-POPを個人的に振り返らせてくれ

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気が付いたらK-POPにはまって早10年。

BTSへの開眼とともに、K-POPとの付き合いを猛烈に振り返りたくなったので書かせてください。

(今から書くことは、ただのひとりのあさ~いK-POPファンの回顧録なので、アイドル事務所やグループを批判したり評価するものではありません。)

 

 

SMエンタにばっかりお世話になっていたわたしだけれど、この度BTSに開眼した。

 

いや、、、ほんとに今更。だよね。そう、い、ま、さ、ら!

ずっと名前くらいは知っていた。横目でちらちら追っかけてはいた。

フォローしているブロガーさんもあの人もこの人もBTSペン。。

 

社会問題も自らの言葉で訴えたりしていて作詞作曲もしているなんて魅力的すぎるでしょう。いつか興味を持ったらはまっちゃうだろうな、という不安(?)をひしひしと感じていた。それでもこの時期にまで、彼らに興味を持たなかったのは「なんか違う」と思っていたからだ。

というのも、もう長いことSMエンタにどっぷりだったので、顔だちも振り付けや楽曲の洗練され方がSMエンタで標準化されていて、わたしの中ではSMエンタ=K-POPという感じになってしまっていたんだと思う。

だから、ちょっと手触りの違うBTSの雰囲気になかなか飛び込めなかった。だけど彼ら絶対魅力的だよな。でも、正直ハマりすぎると現実の生活に支障が出る。頭のなかも彼らでいっぱい、お金も時間も費やされる。そんなことに憶病になる。だから飛び込めない。SMエンタだけで腹八分目でちょうどいい的な、防衛心も働いていた。

 

だって10年前といえば、東方神起。わたしがK-POPにはまるきっかけになったのは、やっぱり彼らだ。まだ韓国風イケメンを見慣れていなかったために、5人組で日本のテレビに出ているときはその魅力がさっぱりわからなかった。でも、2人になった東方神起が、初めてMステでそのパフォーマンスを見たせた時には、雷に打たれたみたいに衝撃的だった。魅力を語れば、長くなるので省きますけど。

以来、Shinee,EXO,少女時代などなど、ハマり続けて、今はNCTの成長を楽しみにしている段階に入っていたわたし。。

どっぷり浸かってファンクラブにも入って韓国にも渡って追っかけ!ってほどでもないけれど、好きなアーティストの新曲が出ればMVや音楽番組をチェックして、DVDを買い、子育ての合間に時々ライブを見に行く、という感じのあさ~いファン生活だった。いろんな意味で疲れた時のカンフル剤になってくれて、希望とかパワーを与えてくれる彼らにはほんとに感謝と敬意を惜しまない。

 

そんなわたしがBTSに開眼したきっかけは、秋元康の楽曲提供がファンの訴えで中止になったときだ。秋元康については言うに及ばずだけど、こういう形で片が付いてすごくホッとした。秋元的なものが嫌だから、外に目を向けてるってるのに関わらないで!ってことだ。その時点でわたしの中で、時は満ちたりって感じだった。

UNでは「あなた自身のことを話して」と呼びかけ、(個人的に大好きな)エレンの部屋にも出演して、軒並みアメリカでビートルズを彷彿とさせるような歓迎を受けてる。ビルボードiTunesでは一位を獲得しまくりだし、人気は本物なんだな。と今さら実感。もちろん彼らの2015年からの地道なアメリカ活動もあったからなのでしょうし、本国の人気とアメリカでの人気と割と地続きになってきている時期なんでしょう。

思えば今までも色んなアーティストがアメリカに挑戦したよなあ。色んな人の顔が浮かんで来てしみじみ。韓国にはアメリカへの流出も多ければ、帰ってくる人も多くて、その中でブラックミュージックが持ち込まれた経緯もあって、アメリカへの意識はK-POP黎明期からだけど。

数年前、ニューヨークに短期滞在したときに、BIGBANGがコンサートをやるのが話題になったり、ドラッグストアで売られている雑誌とかで頻繁にCLが載っているのを見て「こんなにK-POPって浸透してたんだな」と感慨にふけったのだけれど、その時よりも盛り上がってるってことですよね!?いやほんとすごい。

 

PSYが大流行して、ピコ太郎が大流行して、やっぱりアジアのエキゾチックな感じがウケてるの?なんて思ったりもしたけど。BTSがイケメンで韓国語で歌う曲が、世界で熱狂的な支持を受けてるのをみると、K-POPがそのままの形で受け入れられ世界に浸透しているのを実感する。

 

アジア男性って、アメリカでは「見えない」存在だと作家のアディーチェは書いていたけど、ケチで女性蔑視みたいなステレオタイプも根強い。そんななかで、これだけイケメンで、クールで、強いメッセージを持った彼らって、アジアの希望そのものじゃない?「Crazy Rich」っていうアジア系の登場人物で固められた小説で映画化もされている作品が今年話題みたいだけど、なんかその波来てる感がある。

 

新しい!夜明けじゃ~~!!

どんどんどんどん、ってひとり心の中で銅鑼を鳴らした。

あたしが睡眠不足とか出産子育てにかまけてる間にNew era来てたわ~!

 

いろいろ考えながら、ひとり祭り状態になっていたこのところのわたし。

 

それにしてもBTSの洗練された群舞(?)振り付け、フックの強いメロディ-にもはや懐ささえ感じる。最近のSMが凝り凝りだからそう思うだけだろうか。ひとりでに東方神起の5人時代が思い出されて、甘酸っぱくなる。そしてジミンの色気(ジミン推し)。7人の魅せ方を熟知

した自信に満ちたパフォーマンス。そして、曲、歌唱力、ダンス力どれを取っても素晴らしいうえに、強いメッセージ性まで兼ね備えられちゃあ、敵わないよ。美貌、才能、さらに社会に訴える精神、知性、、そんなに兼ね備えられたら抗えないじゃない!!メッセージとかそう言うのに弱いんだからさ、最近。。

 

東方神起を彷彿とさせる懐かしさ。なんて書いたけど、BTSはKPOPボーイバンドのひとつの完成形であり到達点だと思う。デビュー当時あんなにモッサリしてたのに、どんどん垢抜けてかっこよくなり、スターになってゆく最高の成功体験をファンに提供してくれる。楽曲の方向性も大きくぶれることなく(大衆化したのかな?)、何より誰も熱愛したり脱退したり警察のお世話になるなどしていない。最高に甘い。わたしが今もし10代だったら、どっぷりハマって韓国語勉強して、彼らに逢いに行ってたと思う。歌もダンスも上手くてイケメンがデフォルトのこのご時世、本当にここまで突き抜けるのは凄いことだ。大手事務所が生き残りをかけて緻密な戦略を立ててお金や時間を投資している間に、色んなノウハウを持った人材をヘッドハンティングして作った小さな事務所が歴代K-POPのいいとこ取りをしてBTSというグループを世に送り出すことに成功したのではないだろうか。

 

 

 

気づいたらK-POPなんて当たり前の世界になってた。べつにKポオタでもない普通の高校生でもRedVelvedとかBLACPINKとかすでに常識みたいだし。  

 ライブ会場に行っても昔は一目でファッションとかであぁKポペンだなとかって割と判別できたけど、妹曰く今はもう違うらしい。ライブとか行っても見た目一般のひと。ってかそもそも一般になったみたい。北国に引きこもっている間に、そうなってたのね!

 

なんか幼少期から、見込みのある子を囲い込んで、徹底的に管理して育て上げて、みんなの過度な期待に応えるスーパースターを作るみたいな、システムにはやっぱり不安を感じるし、児童虐待とかって言われてもしょうがない部分もあると思う。ファンダムも時に暴力的だしなあ。人権。。。というところはまだまだ。

 

でも変わり続けているってのはひとつの希望だし、もうちょっと人権的配慮もすこしずつされていくんじゃないかなとおもう。目指してるのは世界だしね。そのあたりクリーンでないと、この先難しくなる。

 

あーあ。NCTももっと人気でないかな~。早くチャイナ組がみたい。