Mayfly Diary

ここは無人島です

人と仲良くなるのが苦手な自分を変えることはできるのか

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逡巡している。

 

わたしは人と仲良くなるのが苦手だ。

仲の良い友達もほとんどいない。親友と呼べる人もいない。

入ったサークルとか子育て関係の保護者の集まりなんかでも、いつまでも1人だけ苗字で呼ばれてるタイプだ。

 

友達が当たり前のようにいる人にとっては、信じられない話だろう。

大学生のころ、わたしが遊びにも行かずに家にいるのを見かねて母が「あんた友達とかいないの?」って聞いてきたときには心臓が石ころのようにキューっと固くなった。

お母さんご心配ありがとう。

でも親友とか友達っていうものがいるのが当たり前だと思わないでほしい。ひとりでいるのは好きだけど、友達が要らない人などいない。いるとほんとに素敵。でも自分には“出来ない”んだ。難しい。そして「わたしには友達がいない」ってこと自体が、わたしの存在価値を押しつぶすくらいのコンプレックスになるときがあるんだ。

まあ母にはなにも言い返せなかったのだけど、完全に心配されていたわたし。

なんだかみじめだった。

 

 

わたしは常に人に対してバリアを張っている。張ってしまっている。そして自分のバリアが相手に伝わって相手にも距離を取らせてしまう。

 

どうしてバリア?

 

バリア感の最たるものは沈黙だ。わたしの場合沈黙せざるを得ないのは、パッとうっかり口から出るひと言が大抵相手をビクッとさせてしまうからだ。だからまず沈黙する。その甲斐あってか空気は余計にどよーんとする。最初そんなことなくても急激にどよーんとする。

すると今度はその沈黙を破るために何か言わなきゃと焦る。しかし発言したところで、空気をピリつかせる腕前は一級品だ。ピリつく理由は、声のトーンとかかしこまりすぎな言い回しとか、飛躍した話題とかだ。それらのどれか、あるいは全部が出てしまう。

そのくせ、ピリついた空気にはわたし自身がやたら敏感で「やっちゃった」と冷や汗きながらも、できることと言えばひきつった笑顔を保持することのみ。場に空気を和ませることなんて当然できやしない。

 

そんなこんなで、コミュニケーションをとる際には自分に課しているポイントがいくつかある。

一、沈黙を破るためだけに直球で質問しちゃだめ。

一、何も考えずに感性で発言しない。まず共感。

一、話は最後まで聞くにようように心がける。

一、大抵衝突事故になるので、無理な発言あるいはカットインは控える。

一、常に笑顔で。

 

どうだろう。

当然のことと言えば当然のことばかりだ。そして、書き出してみると我ながらかなりのうわべだけのルール。テクって感じだ。

というものの、実際かなり真剣にこのルールを心がけている。心がけすぎて、自分の決めたルールに縛られすぎて身動きが取れなくなるほどだ。

 

これをドツボという。

 

だから趣味のサークルとか親子のふれあいセンターとか連れ合いの親戚の集まりとかに参加すると、もんのすごく疲れる。ほとんど座っているだけで人と話をしなくても、遠泳の後かっていうくらいげっそり疲れる。

 

では翻って上記のルールを無視し「心のままに突き進んだら」どうなるのか。

それは高校生の時の体験から、「無理」だと脳にブレーキを掛けられている。

 

高校生の時のわたしは、それこそ「自分をさらけ出した者こそが勝者だ」みたいな幻想に駆られていて。ちょっとアクセル踏み込みすぎの、いわゆる(当時の)「はっちゃけた」自分に酔っていた。だけれど、その暴走によって相手の性格も考えずに友達をからかってしまったり、誰かの言いたいことを遮り続けて、最終的にはみんなが私の発言待ちになる、みたいな体制ができてしまったりした。場の空気を明るく楽しくしようと必死で、でかい声でバカなこと言って、それほど面白くなくてもめちゃくちゃ笑う。みたいな。

 

どれもこれもが自ら蒔いた種なんだけど。

そんな毎日に疲れ切っていた。その場その場ではどうにか楽しく「浮かず」に学校生活を送れていたのだけれど、結局なんでも話せる友達もいないし、休日に遊びに誘ってくれる友達もほとんどいなかった。別にスクールカースト上位だったわけでもないし、クラスでは全然目立つほうではなかったと思う。でもなんか、無理していた。

今思えばかつてのわたしは、明るく振舞う反面、怯えていたのだと思う。そのせいで結局いつも受け身のままだった。

根本的に断られるのが怖くて、あるいは期待を裏切ったり、「みんなのように」振舞えない自分が申し訳なくて、友達にメールを送ったり、遊びに誘ったりすることができなかった。そうなれば、当然誰からも誘われない。つまり一歩踏み込んだ付き合いができないひとだった。学校で会うだけの人。放課後とか休日とか、卒業しちゃえばそれまで。ってかんじの。

あとは意見も言えなかった。し、今でも言えない。本当に信頼している人にしか言えない。それ以外の人には、完ぺきに同調するか、はぐらかすか、分からないふりするかだ。(ひどいな)

 

ともかくこういう経緯で「心のままに突き進めモード」は却下した。

 

仮に全然立場の違う人どうしで、ひとりとひとりとして知り合った場合なら、それほど躊躇したり付き合いにしり込みしたりすることはない。そういう場合なら、誰とも比べられずに「わたしはこういう人です」って、堂々としていられる気がするから。

考えてみたら、わたしが連れ合いのロッキー教授に心を開けたのも、世代も違うし、育った地域も違うことによる安心感が背景にあったからだ。

 

 

もちろん自分をさらけ出すことが唯一の方法だとも思わないし、大人になってから少しずつマイペースに付き合っていくなかで相手の人となりを知るって経験もするようになった。なにもありのままの全てを受け入れてもらおうなんて思っちゃいない。だけど、個別のそれぞれ違う状況下でのコミュニケーションにおいてどれくらいの態度で、何をどうすればいいのか。という実際のシチュエーションとなると、身動きが取れなくなるのだ。

 

考えすぎ。

 

だろうか。

 

高校生の時の経験以外にも、コミュニケーションに関してはフラッシュバックみたいに辛い経験が湧き出てくる私としては。「何も考えずに」とか「ようは自分がどうしたいか」とか精神論的な基準でやるのは無理。

 

見えない「みんな」に怯えすぎている。たしかにそれは「空気」だから「見えない」。もちろん、同じ「空気」の中にいても、とらえ方の差異はある。「空気」は目に見えないけど、それぞれの心にしっかりと内面化されていて、人と違うことはNGだと手に手をとってブレーキをかけている。そしてそれが標準状態。人よりも空気とか和を尊重する向きがある。その和を乱さないピンボールの範囲は、わたしからするとめちゃくちゃ狭い。少しブレれば、すぐにアウトだ。アウトの球は認識されないしカウントもされない。

 

ぶっちゃけ「空気を読むことを善しよされる文化」が嫌いだ。

 

だけど、現実問題空気を読まないと、周りを不快にさせる、もっと悪いと相手も自分も傷つく。近づきがたいオーラをだすと「空気」を悪くしてしまう。そうしたいわけじゃなくって、やっぱり楽しく時間を過ごしたい。

 

そう、私は閉じているんだ。がちがちに。どうにか閉じたまま、人とうまくやろうとしている。開けるか閉めるか。その二択ではないのだが、うまい開き加減が全然見つからない。

 

もうちょっと目的意識、あるいは役割をシチュエーションごとに設定してみたほうがいいのだろうか。

 

どうだろう。

 

話が長くなったのでいずれまた続きを書きます(^_-)-☆